概要近江牛の歴史

  • ■ 近江牛の誇りに400年の歴史有り

    日本には三大和牛と呼ばれる肉牛のブランドがある。「近江牛」「神戸牛」「松阪牛」だ。中でも圧倒的な歴史を有するのが「近江牛」。400年以上の歴史がある。
    「神戸牛」の歴史が約130年、「松阪牛」で100年。近江牛の畜産農家が、どこよりも「近江牛」の名前に、強い誇りと自信を持つ理由がここにある。

    史実に基づけば、滋賀県を産地とする牛肉は、1687年、彦根藩で味噌漬けにされた養生薬「反本丸(へんぽんがん)」として商品化され、日本各地に知られていった。
    肉禁食の江戸時代にあって、「反本丸」は、彦根藩主井伊家より江戸の将軍家や諸侯に献上され、養生薬として特権階級に賞味されていたのだ。このように、近江牛は日本で最も長い歴史を持つ肉牛と言える。
    しかし、320年前の「反本丸」は、彦根藩で井伊家指導の下、生産された牛肉「彦根牛」の加工品であり、もちろん「近江牛」という呼称ではなかった。


  • ■ 始まったばかりの近江牛ブランディング

    実の所、「近江牛」をブランドとして確立した歴史はまだ浅い。ブランド化への動きは1951年、近江肉牛協会の誕生をスタートと見ることができる。当協会が目指したのは、日本初の「肉牛のブランド化」だった。
    とは言え、当時の日本人の年間肉消費量は現在の20分の1ほど。農耕用の役牛が主役だった時代、生産者には肉牛の肥育体制は整っていなかった。
    それ以降も長らく「近江牛」のブランディングは各畜産業者・販売店がそれぞれに取り組んできた。ブランディングに限界があったことは否めなかった。 本格的なブランディング活動は、「近江牛」の定義が正式にルール化された2005年、商標に登記された2007年まで待つこととなった。

  • 「近江牛」4つの時期

    第Ⅰ期 役牛の時代  
    第Ⅱ期 食肉開化の時代  
    第Ⅲ期 肉牛の時代  
    第Ⅳ期 ブランディング本格化の未来

  • ■ 第Ⅰ期 役牛の時代

    江戸時代、米どころの近江(滋賀)では、牛は農家に欠かせない農耕と運搬の動力であり、「役牛」としての役割が主であった。農家は牛を家族のように大切に扱っていた。しかし、6、7歳を越えると牛の働きは悪くなり、若い牛へと交換することが一般的であった。
    当時、彦根藩は、陣太鼓に使う牛皮を毎年幕府に献上するのが慣例で、家畜の殺生が禁じられていた時代にあって公式に牛の屠殺が認められていた。1771年当時、彦根藩内で最大の宿場町・高宮には屠場(とじょう)があったとの記載もある。このように役牛として使えなくなった老牛を各農家から集め、幕府公認で藩内で屠殺できた彦根藩の特殊な立場が、「反本丸」や、その後生産が始まった「干し肉」などの牛肉加工品を生み出す背景になったようだ。
    先にも述べたが、1687年、肉を味噌漬けに加工した養生薬「反本丸」の開発、将軍家への献上が、後世の「近江牛」のブランド化の礎になったと言える。江戸時代末期における彦根藩の牛肉生産量としては、年間1000〜3000頭を屠畜したという記録もあり、東海道沿線にはすでに「彦根牛」を販売する店もあった。

    とは言え、彦根藩であっても牛の役割は、あくまでも「役牛」であり、現在のように食用を目的とする肥育は存在しなかった。


  • ■ 第Ⅱ期 食肉開化の時代

    文明開化は、食肉開化でもあった。
    明治時代の幕開けは、肉を主菜とした洋食との出会いであり、日本人にあった肉禁食の観念を序所に追いやっていった。「近江牛」ブランド化への胎動も、文明開化前後から力強くスタートする。
    数々の家畜商たちが近江商人として活躍し始めた。その中心になったのが、滋賀県蒲生郡竜王町出身の二人の家畜商、竹中久治と西居庄蔵である。
    明治維新前の1862年、日米修好条約が締結されると、横浜に多くの外国人が居住した。外国人が好んで牛肉を食べることを知った西居は1869年、陸路17日から18日かけて、滋賀から横浜まで牛をひき運び、外国人と直接取引を開始した。
    続いて1879年、竹中久治が東京に進出。1885年には浅草に牛肉問屋、牛鍋 屋「米久」を開業したことで、日本人の間にも「江州牛」は人気を呼ぶようになった。東京では100軒以上の牛鍋屋が開店し、「江州牛」が広まる下地は整っていった。
    1882年、西居は取引量の増加に伴い、より効率的な搬送方法を考えた。神戸港から芝浦港(東京)へ海運によって「江州牛」の出荷を開始。後の「神戸牛」の誕生となる。
    1887年、東京府で屠畜される牛は年間2万頭。内、江州牛は6,000頭を越えて最大であったことからも、西居や竹中の活躍ぶりがわかる。

    1889年、東海道線が開通し、滋賀と東京が鉄路で結ばれると、東京への牛肉の大量出荷が幕を開けた。1890年、近江八幡駅より東京への鉄道輸送が始まると、東京の消費者は、これまでの「江州牛」に替わり「近江牛」の呼称を漸次使うようになった。1906年、上野公園で開催された全国家畜博覧会で蒲生郡産の近江牛が1位となると、近江牛はますます東京市民の耳目を集めた。「近江牛」ブランドの誕生である。
    順調に見えた近江牛の前途だが、戦争が始まり、統制経済下、牛肉の県外搬出が禁止されるとその発展は戦後まで足踏み状態となる。


  • ■ 第Ⅲ期 肉牛の時代

    戦後間もなく、「近江牛」の歴史上、最も大切な出来事があった。地元の家畜商と東京の卸業者が協力し、1951年に発足した近江肉牛協会の誕生である。
    当協会は、牛肉ブランドの確立を目的に設立された日本で初めての団体で、当時の近江牛に携わる業界関係者の先見性や情熱を示していた。
    詳しくは、近江肉牛協会歴史のページを参照していただきたい。
     
    1960年代に入ると、日本の農業に技術革新が起きる。耕運機やトラックの誕生・普及により、日本の農業は短期間のうちに現代化した。
    1000年以上に渡り日本の農業を支えてきた役牛は、その役割を終え、滋賀県でも各農家から役牛が姿を消していった。1960年、県内に26,000頭いた牛は、5年後の1965年には11,000頭へと激減した。
    一方で、多くの家畜商が肉用牛としての肥育に取組み始めた。肉質の改善や、一頭あたりの枝肉の量を増やす増体改良が進んだ。1970年代に入ると、近江八幡では大中の湖が埋め立てられ干拓地が整備された。広大な農地の中に牧場もできた。
    畜産業にとっては非常に恵まれた環境の中で、まずはホルスタイン牛の肉向け肥育が始まり、「近江牛」畜産業の基盤整備が進んだ。しかし、このホルスタイン牛を中心とした肥育は、1991年の牛肉輸入自由化により大きなターニングポイントを迎える。安いアメリカ産の牛肉に対抗し、差別化を図るため、滋賀の畜産農家は高級化路線に舵を切る。ホルスタイン牛から交雑種、さらに黒毛和牛の肥育へと移っていった。まさに近江牛の代名詞と言える“霜降り肉”への切り替えであり、「近江牛=高級和牛」というブランディングは本格化した。神戸牛や松阪牛など、ブランド牛の群雄割拠の時代が始まったのである。


  • ■ 第Ⅳ期 近江牛ブランドの未来

    日本で最も歴史があるブランド和牛「近江牛」だが、明確な定義やその商標が法的に保証されたのは 最近のことである。
    2005年12月、「品種」「原産地」によって「近江牛」の定義が初めて確定。2007年、「近江牛」は商標として正式に登録された。同年、近江肉牛協会など業界10団体が参加した「『近江牛』生産・流通推進協議会(近江八幡市)」が立ち上がった。「近江牛」をブランド和牛とし、消費者から信頼と安心を獲得する準備が整った。「近江牛」は認証制度のもと市場に出ている。 同協議会から認定を受けた指定店舗でしか販売できない。  

    現在、滋賀県内には9市5町に59牧場があり、「近江牛」ブランドを支えている。牧場の経営は、それぞれに固有の方針がある。「素牛」の供給場所も違えば、与える飼料の配合も違う。それぞれの牧場に歴史と伝統があり、プライドがある。

    やり方は違えど、各牧場の思いは一つである。「いかにして近江牛を日本最高の和牛ブランドに育てていくか?」
    日本国内には大小合わせて約300のブランド和牛がある。進む高齢化や空前の健康ブームで、市場が牛肉に求めるニーズも変化する。最高の“霜降り肉”は 「近江牛」の代名詞にまでなってきたが、その次の品質や価値を「近江牛」は持ちえるのか?和牛業界が進むべき方向、「近江牛」ブランドが進むべき方向は、まだまだ課題が山積している。
     更に、日本のTPP参加によって、今後、国内家畜業者は、否応なく国際競争の波にさらされる。オージービーフの品質も年々レベルが上がっており侮れない。今や、ライバルは国内の和牛ブランドだけではない。一方で、TPP参加は「近江牛」が国際市場に挑む可能性も秘めている。そのためには、生産量、規模、ノウハウともに、十分な体制の整備を急がねばならない。

    ブランド和牛「近江牛」の未来を切り開く挑戦は、いま始まったばかりである。

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