戦時下の経済統制は、牛肉の流通に大きな影響を残した。 県境を越えて牛肉を搬出できなくなっていた時期、一大消費地の東京から「近江牛」は姿を消していた。滋賀の家畜商は活躍の場を奪われ、明治維新以降、近江牛の販路拡大に尽力してきた先人の功績には、時代の重い影が長らく覆いかぶさっていた。
終戦後、「近江牛」の復興に立ち上がったのは、地元の家畜商たちと東京の大手販売業者であった。
滋賀県では各農家から牛を集める家畜商12名と販売業者6名が、そして東京では食肉問屋の松井鹿之助を中心に小売販売業者16名が名を連ねて、1951年、近江肉牛協会を発足した。当協会の目的はただ一つ、「近江牛」をブランド和牛に育てていくことであった。特筆すべきは、この当協会の取組みが、日本で初めての「牛肉を地域ブランドにする」取組みであったことである。
前年に朝鮮戦争が始まり、経済特需が発生した東京で肉牛の消費は飛躍的に進む。「近江牛」は再びその味を庶民に再認識されることとなった。当協会の取組みは時代の追い風を受け、一時、東京では200を越える小売店が「近江牛」の指定販売店として私たち協会の会員名簿に名を連ねていた。
消費が増え、販売会員が増えていく中で、それまで家畜商が小売店舗に直接販売する相対(あいたい)取引が中心であった牛肉取引は、競(せり)取引へと移行。
誰もが購入できる制度が整うことで、市井で評判が高かった近江牛は、値段もはね上がっていった。
「近江牛を和牛ブランドへ」。
当協会は1954年10月18日、滋賀県と官民一体となり、東京で一大プロモーションを実施した。日本橋の百貨店・白木屋での大宣伝会(キャンペーン)である。白木屋は後の東急百貨店の前身で、現在の日本橋一丁目ビルディング(コレド日本橋)にあった。当時、日本では最も有名な百貨店として知られた存在だった。
大宣伝会には、滋賀より運ばれた6歳の雌牛17頭が出品された。まず、豪華な美粧を凝らした13頭がトラック4台に載せられ、芝浦屠場(品川)を出発。あいにくの雨中ではあったが、白金、六本木、青山、原宿、新宿、浅草橋などを経由して日本橋の白木屋まで行進し、道行く市民の注目を集めた。白木屋では、パレードから遅れて運ばれてきた残り4頭も加わり、17頭の牛はエレベーターで八階屋上まで運ばれた。
屋上には「近江肉牛せり市」と書かれた看板を掲げた特設ステージが設置されていた。雨であったが、屋上には買い物客らがあふれた。17頭の公開せり市は盛大に開催され、全頭が競り落とされた。
地下の食品売り場での特売会も大いににぎわい、近江牛は飛ぶように売れた。「霜降上ロース」「霜降最上ロース」「霜降最高ロース」などの札が掲げられ、売上は平日の六倍だった。
翌日の新聞紙面には「近江牛 都大路を行く」「江戸っ子のド胆ぬく」「人気呼んだ近江牛せり市ショウ」などの見出しが踊った。
官民一体で取り組んだ近江牛キャンペーンは大成功に終わった。
私たち協会が60年前、東京で実施した近江牛の大宣伝会は、「近江牛」が三大和牛ブランドとして今日の名声を得る出発点でだった。現在、牛肉を取り巻く市場環境は様々な面で変化しています。 国内市場に目を向ければ、今では地域ブランドとして300とも言われる牛肉ブランドが「われこそは最高の牛肉」と、競争しています。その一方で、オージービーフをはじめ、海外の牛肉も年々品質を上げて、日本市場でその存在感を増してきています。この60年で日本国内の牛肉市場は成熟し、年々、消費者の味に対する要求も変化。品質を見る目は、さらに厳しくなっています。
更に、これからは日本がTPPに参加することは避けられない状況です。待ったなしで日本の牛肉市場は、国際化の波にさらされます。これから私たち近江肉牛協会は何を目指し、歴史を刻んでいくのか。
「近江牛」を世界のブランド牛へ ー
それが私たちの答えです。